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恐怖を望むこころの行先。 [雑記]

『雨月物語の世界:上田秋成の怪異の正体』井上泰至(角川選書)という本を読み進めてる。少しでも雨月物語や、上田秋成についての考察を深めたくて。

この本は雨月物語や、作者の上田秋成について掘り下げていて、内容がいちいちおもしろい(笑)。
本を読み進めるのが遅いから細切れになってしまうけど、この著書から得られたインスピレーションをもとに少し雑多に書いてみようと思う。

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今回は「人はなぜ怪談話(怪異)を求めるのか」というテーマについて。
著書では【第1章「生」の不安ーー怪談とその小説が生まれる基盤】というタイトル。

江戸時代に書かれた雨月物語が、どうして現代にも受け入れられ読み継がれるのかという点から出発する文章はとても読みやすい。平和な世の中という、安穏とした場で生きる私たちが疑似的に恐怖を体験することで不安を解消しているという点が、江戸でも現代でも普遍的なのだという。
ここでいう不安ていうのは“平穏だからこそ感じるもの”という言い方が興味深くて。
人は平穏であればあるほど、それが続くことを望むし、それが途絶することに不安を覚えるらしい。・・・・・・ま、そうだと思うけど(笑)。

さらに加えて“都市化”というキーワードも、恐怖の疑似体験を求める心理を醸成したらしい。
都市化することで個人の匿名化が進み、これによって不安が増大していく。
アパートの隣人が誰かよくわからないとか、そういうのは現代だってフツウにあることだ。


でも、やっぱり少し引っかかる。
私が雨月物語を読みたい(作品づくりをするほどまでに関わりたい)と思うのは
単に平穏さが生み出す不安を超克したいからじゃない。
単にありもしない未来の不安を先取りして、軽く水に流すような、そんな感じでは説明がつかない。

例えば「青頭巾」。私はこの物語で描かれる同性愛や年齢差のある相手への愛欲とか執着とかが気になってしまう。描かれている恐ろしいシーンに惹かれるというより、こうしたディテールに興味を覚えてしまうみたいだ。

物語では少年への愛欲に鬼と化した元僧侶が、徳の高い旅の僧侶の仏徳によって教化され、元僧侶の妄執は氷が朝日に溶けるがごとく消え去る・・・・・・というクリアな建付けになっている。でもね、そうは簡単には終わらないんじゃないの?っていうのが私の考え。仏教を否定するつもりはないのだけど、人の執着とかはどんな世になっても消えずにあり続けるような気がしてる。

雨月物語の中に描かれる恐怖・・・・・・私はその恐怖をむさぼって不安をどうこうしたいわけじゃない。それより、妄執を抱き続けるリアルな人の心の闇をにらみ続けていたいという、なんともしちめんどくさいことをやりたいって思ってる。もう、ほとんど理解不能なんだけど(笑)。

私がやりたいのは、訪れもしない未来の不安をなぞって消したつもりになるのじゃなくて
それがどんなに見たくないものであったとしても、そこにあり続けるものとして眼前に置き続けたい。これが私なりの不安との闘い方。もっとカンタンな方法がありそうなものだけれど(苦笑)。

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次回は第2章「幻術の文法ーー怪異表現の視覚と聴覚」を読んで、
そこから得られたインスピレーションで書いてみたいな。


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